ブッダは、仏典によると80歳で亡くなったことになっています。

ある弟子のところで食事をしたところ、腹痛を起こし、それが元で亡くなったとされて います。

ブッダは、死ぬ間際にこういうことを言ったとされているのです。

「自分と法を島とし、自分と法をよりどころとし、他人をよりどころにしてはならない」

このことは、漢語では「自帰依、法帰依」と表現され、仏教でもっとも有名な文言の一 つです。「相応部経典」など初期の仏典の多数に書かれています。そして、このことは、後の仏教徒の誰かが書き足したものとも思えません。なぜなら、 後の仏教団にとって、これは決して都合のいい話ではないからです。仏教団というのは、 そもそもが「法と自分だけをよりどころにせよ」というブッダの教えにそむき、指導者をつくり、ピラミッド型の組織を形成してきた団体だからです。

後世の仏教団としては、この「自帰依、法帰依」という文言は目障りだったはずです。が、 初期の仏典からずっと書かれてきたことなので、はずすわけにはいかず、ずっと残されて きたのでしょう。

この教えを見ると、教祖への盲目的服従を強いる教団などは、ブッダの教えと逆の方向にあるということがわかるはずです。

なぜブッダが「他人をよりどころにするな」と言ったかというと、「やはり自分の人生 は自分で解決するしかない」ということなのではないでしょうか。

どんな人の人生でも、困難なことはたくさんあります。自分が直面している問題は、ど うやれば解決できるか、人間関係一つとっても、うまくやっていくのは大変です。どうすれば、人と仲良くできるか、不用意に人を傷つけたりしていないか、そういうのは、その場、その場で、自分が判断しなければなりません。 それは、とても面倒くさいことです。

もし苦行をしたり、誰かの命令を聞きさえすれば、それが全部クリアできるのであれば、 そういう宗教に入りたいという気持ちもわからないではありません。が、本当は、教団に入ったり、苦行したところで、人生の煩雑さがすべてクリアされる。

わけではないのです。教祖様の言うことをすべて聞いていれば、あらゆる問題から解放されるものでもないのです。今、宗教などにはまる人というのは、「これをやればあなたの人生はOKですよ」 というような、合格証というか、認定証のようなものが欲しいものと思われます。神様から「あなたの人生は正解です」というお墨付きが欲しいわけです。宗教に限らず、宗教を求める人の心理というのは、だいたいそういうものですよね。

でも、ブッダは、「神様の合格証とか認定証はない」ということを言いたかったのではないのでしょうか。

自分も、最初はそれが欲しくて出家をし、苦行をした。でも苦行をしているうちに、それがバカバカしくなった。世の中というのは、無常であり、移ろい変わっていくもの。そういう中で、「これさえやっていれば大丈夫」というような、フリーパスなどあるわけはない。人生の一瞬、一瞬を自分で判断し、世の中を渡っていきなさい。

「自らを島とせよ」というのは、そういう意味なのではないでしょうか。